タイトルの意味を説明する。
実家の母が日頃仲良くしてもらっていた友人がいた。私の幼なじみのお母さんである。
小さい頃は、幼なじみの家が近くにあり、よく遊んだ。区画整理などで、その子のうちがウチの目の前に移動してきたこともあったなぁ。本当によく遊んだ友達だ。
母同士も、共通の友人が居たりしたようで仲良くしていた。
その後、幼なじみは家を新築したので、ウチから少し離れてしまったのだけど、母は自転車に乗り、よくお茶をするために訪ねていたようだ。
だが、それも多分コロナでできなくなり、しばらく疎遠になっている模様。
実家に帰ると、〇〇さんちはこの辺りだよね?とドライブしながら母がよく話す。よく訪ねていたことを覚えているんだろうな。
母にはたくさん友人がいるようには見受けられない。
今は訪ねてくるような友人はいない様子だし、話にも出てこない。
認知症で孤独な気持ちになっている上に、友人も訪ねてこないとくれば、頼れるのは父だけ。気持ちの拠り所は父だけになっているようだった。
そこで、私はその幼なじみと久しぶりに連絡をとることにした。
幼なじみの母と仲良くしてもらっていた母。少しでも関係を復活できないか。
幸い、年賀状のやりとりはずっと続けていたので、今年の年賀状に少しばかり事情を書き、とりあえずLINEで繋がりたいと話した。
幼なじみに年賀状が届いたようで(今は実家から遠く離れた地に住んでいる)、連絡が来た。
幼なじみもしばらく連絡していない間に色々あったらしいが、今は元気にしているようで安心した。
幼なじみに、私の母の事情を話した。時々でいいので、幼なじみのお母さんに顔を見せに来てもらえないか、と頼んだ。
父からは、母が認知症になったことや、ウチの事情は話していないはずなので驚くかもしれない。
そして、これは父に相談せずに私が勝手に幼なじみに話した。
父に話したら、止められるかもしれないからだ。
余計なことかもしれなかった。
だが、相手は母の友人だ。私がその友人の立場なら、少しでも力になりたいと思うだろう。
顔を見せてくれるだけで良いのだ。
それだけで、母はきっと、「私はひとりじゃない。」と、元気が出ると思った。
親戚に話した方が良いか?と父に訪ねた時、NGが出た。
でもそれは私も納得できた。
大した助けにならないであろう事が、これまでの親戚付き合いから予想できたからだ。
遠くの親類より近くの他人、とはよく言ったものだと思う。
その幼なじみの家に頼るつもりはないが、少しだけ気にかけてもらえたらそれで良いのだ。顔を見せてくれるだけで。
どうか伝わりますように。